嗜好品としてのコーヒーが一般的になったのは、遠くアラビアの地。エチオピアで飲用されていたコーヒーがアラビアに伝わったとされていますが、当初は味わいを楽しむ飲み物としてではなく、薬として飲用されていたそうです。15世紀末には、宗教上の理由で飲酒を禁じられていたイスラム教徒に、嗜好品として飲用されるようになりました。
コーヒーと聞くと、南米で生産されているイメージが強いですが、南北アメリカ大陸にコーヒーが伝わるのは、ずっと後のことなのです。
コーヒー大事典
コーヒーの歴史
私たちが普段楽しんでいるコーヒーには、実は深い歴史があります。
そんな知られざる歴史をご紹介するコラム。
601年-1600年
嗜好品としてのコーヒーが一般的になったのは、遠くアラビアの地。エチオピアで飲用されていたコーヒーがアラビアに伝わったとされていますが、当初は味わいを楽しむ飲み物としてではなく、薬として飲用されていたそうです。15世紀末には、宗教上の理由で飲酒を禁じられていたイスラム教徒に、嗜好品として飲用されるようになりました。
コーヒーと聞くと、南米で生産されているイメージが強いですが、南北アメリカ大陸にコーヒーが伝わるのは、ずっと後のことなのです。
6世紀頃エチオピアのヤギ飼いのカルディがコーヒーの赤い実を発見。飲用を始め、修道僧にすすめる。
13世紀アラビアを中心としたイスラム圏で秘薬として飲用される。
15世紀イエメン地方でコーヒーの木が栽培される。
15世紀末コーランで酒を禁止されているイスラム教徒に嗜好品として飲用されるようになる。
1505年アラブ人により、イエメンからセイロンへ、コーヒーの木が伝播。
1510年飲物としてのコーヒーがカイロに伝わる。<コーヒー飲用がエジプトへ>
1517年オスマントルコのセリム1世がエジプトを征服し、コーヒーをイスタンブールに伝える。<コーヒー飲用がオスマントルコへ>
1554年イスタンブールに世界初のコーヒーハウス「カーヴェハーネ」が開店。
コーヒーがいつ、どのように誕生したかについては諸説あります。ここでは有名なエピソードを2つご紹介します。
ヤギ飼いが偶然に見つけたコーヒー 6世紀のエチオピアでの出来事。ヤギ飼いのカルディは、ある日ヤギが赤い実を食べて興奮しているのを見つけました。不思議に思ったカルディは、近くの修道院の僧侶に相談したあと、自分でその実を食べてみました。するとどうでしょう、不思議なことに気分が爽快になったのです。カルディは修道院でこのことを話、修道院の他の僧たちも食べてみたところ、夜中の修行でも眠気が吹き飛ぶ効果があることが分かりました。それ以来、この赤い実(コーヒーの実)を眠気覚ましの薬として、煎じていんようされることになりました。
イスラム教の僧侶が見つけたコーヒー アラビアのモカ(現在のイエメン)でイスラム教の僧侶をしていたオマールは、ある時、領主の誤解によって町を追放されてしまいます。山中をさまよい、飢えに苦しんでいたとき、一羽の鳥が赤い木の実をついばんでいるのを見つけました。思わずこれを口にしたところ、飢えが癒され、疲労も消え、気分が爽快になりました。
その頃、彼を追放した町では病気が猛威を振るい、人々を苦しめていました。そこでオマールがこの赤い実(コーヒーの実)赤い実の煮汁を人々に与えたところ、町の人々は病からあっという間に回復し、オマールは<薬を発見した僧>として崇拝されるようになりました。
どちらの説も、コーヒーの飲用が、ただならぬ薬効を持った秘薬として始まったことが分かります。
1601年-1700年
アラビアで楽しまれていたコーヒーは、その後、イタリアのローマへ伝えられます。「イスラム教徒の飲み物」として伝えられたコーヒーは、当初キリスト教徒にとっては飲むのに抵抗があったようですが、ローマ法王が認めることで、キリスト教徒の間にもあっという間に広がりました。
そしてローマからイギリス、ドイツ、フランスへと広がり、コーヒーを楽しめる「コーヒーハウス」が各国で次々とオープンしていきました。このコーヒーハウスは「珈琲を楽しむ」場のほかに、さまざまな文化人や政治家などが集まる「社交場」としても使われ、社会的にも重要な役割を担いました。
1600年頃ローマ法王クレメンス8世がコーヒーを「異教徒のみの飲み物にしておくのは惜しい、キリスト教徒の飲み物にせん」と宣言したと伝えられる。<キリスト教徒が抵抗無くコーヒーを飲むようになる>
1602年コーヒーがローマへ伝わる。
1615年コーヒーがベネチアに伝わる。<コーヒー飲用がヨーロッパ圏へ>
1641年和蘭商館が平戸から出島へ。以後オランダ人が出島にコーヒーを持ち込む。
1645年ヨーロッパ最初のコーヒーハウスがべネチアに開業。<イタリアで一般にコーヒーが飲まれるようになる>
1650年イギリス最初のコーヒーハウスがオックスフォードでユダヤ人のジェーコブスによって開業。
1652年ロンドンにコーヒーハウス開店。
1668年コーヒーが北アメリカに伝わる。
1670年コーヒーがドイツに伝わる。
1671年マルセイユにフランス初のコーヒーハウス開店。
1672年パリにコーヒーハウス開店。
1683年ウイーン包囲失敗でトルコ軍が残したコーヒー豆でコルシツキーがウイーンで最初のコーヒーハウスを開業。
1685年フランスの著名な医師モナンが健康に良いとカフェオレをすすめる。
1686年パリのコメディ・フランセーズに、後に多くの著名人が集うことになるカフェ・プロコールが開店する。
1695年イスラム教巡礼者ババ・ブータンがイエメンからインド・マイソール<インド南西岸>に繁殖力のあるコーヒー豆を伝える。<インドで生産が始まる>
1699年オランダがインド・マラバル<インド南西岸>からコーヒーの苗木を運搬しオランダ領インド諸島<ジャワ島>へ持ち込む。これがインドネシアの全てのアラビカ種の先祖となる。<やがて、ジャワ島が大供給地となる>
ヨーロッパでは、コーヒーの人気が高まると同時に、コーヒーに対する反対運動が起きました。イギリスでは1674年に、ロンドンの主事達が結束して、<コーヒーハウス反対運動>という抗議デモを行っています。
ではなぜ、コーヒーへの反対運動が起こったのか。実は当時、コーヒーハウスは女人禁制。男性しか入ることを許されなかったのです。「コーヒーを飲むと子供が産めなくなる」「肌が黒くなる」などと言われ、女性は堂々とコーヒーを楽しむことはできませんでした。これに怒った主婦たちを中心に、激しいコーヒー騒動が起こったのです。
この騒動を風刺喜劇にしたのが、音楽の父とも呼ばれる大作曲家であり、コーヒー愛好家でもある、あのヨハン・セバスチャン・バッハです。彼は、コーヒーをめぐる大騒動を描いた喜劇<コーヒー・カンタータ>の中で、コーヒー好きな娘に「千のキスよりすばらしく、ぶどう酒より甘いわ。コーヒー、コーヒーはやめられない」、その父親には「コーヒーをやめないなら外出禁止だ。窓から外を見ることもダメだ」と掛け合いをさせ、最後には娘は「コーヒーを許してくれる男でないと結婚しない!」と歌わせました。もともとは「お静かに、おしゃべりしなさるな」という曲名でしたが、今ではバッハの<コーヒー・カンタータ>として広く知られています。
この喜劇は1734年、ドイツのライプツィヒのカフェで、バッハ自らの指揮で初演され、大変な評判を呼んだそうです。
1701年-1900年
17世紀になると、世界では欧州の国々による植民地活動が活発になり、それとともにコーヒーの木も世界各地へ運ばれていきました。そして18世紀初頭、コーヒーの種子と苗木が、現在もコーヒーの大供給地であるブラジルにわたり、生産が始まります。
1804年には、日本人も初めてコーヒーを口にします。しかし、記録には「焦げ臭くて、味わうに耐えない」と記されており、まだこの時はコーヒーの美味しさには気付けなかったようです。
1706年ジャワ島からアムステルダム植物園へコーヒーの木が持ち込まれる。この木の種子が元になって、世界各地へコーヒーが伝播することとなる。
1714年アムステルダム市長からパリのマルリー城のルイ14世へコーヒーの木が送られる。<このコーヒーの木が植物園で育てられる>
コーヒーの木がパリからレユニオン島等のアフリカ西海岸諸国へ渡る。
1723年フランスのガブリエ・マチュ‐クリュー歩兵大尉が本国に一時帰省した帰りに、パリ植物園のコーヒーの苗木をマルティニク島<カリブ海>に持ち込む。<コーヒーの木がアメリカ新大陸へ入り、のちに大供給地となっていく>
1724年オランダ人による、西洋テーブル・マナーの講義をまとめた「和蘭問答」の中に、コーヒーと思われる記述がある。
1727年ブラジル<アマゾン河口のポルトガル領パラ>にコーヒーの種子と苗木が入り生産が開始される。
1734年バッハが「コーヒー・カンタータ」を発表しカフェで初演。自ら指揮棒をふる。
1744年イギリスのトーマス・フライがボン・チャイナを発明。<ウェッジ・ウッド等の発展の元となる>
1773年ボストン茶会事件で海に茶が投げ捨てられる。これをきっかけにコーヒーがアメリカ人の広く飲まれる。
1800年フランスのド・ベロイがドリップ式のコーヒーポットを発明。コーヒーを濾過して飲む方法の始まり。
1804年 日本人として、初めてコーヒーを飲んだ大田蜀山人は「コーヒーは焦げ臭くて味わうにたえない」と書いている。
1821年イギリスで新たなコーヒーの飲み方として、ネルドリップ方式が現れる。
1826年医師シーボルトは、コーヒーは長寿をもたらす良薬であると「薬品応手録」で日本人にコーヒーをすすめた。
1840年イギリスでコーヒーのサイフォン式抽出機(ちゅうしゅつき)が発明される。
1858年日米修好通商条約締結。コーヒーやその原料のコーヒー豆が正式に輸入できるようになる。
1869年横浜で発行の邦字新聞「萬刻」に、初めてコーヒーの広告が掲載。
1888年東京下谷黒門町で鄭永慶(ていえいけい)が初めて豪華なヨーロッパ風カフェ「可否茶館」を開店したが、4年後には閉鎖。
1899年加藤サトリ氏がインスタントコーヒーを発明。2年後全米博覧会で展示する。
しかし、アメリカ人ジョージワシントンが別の方法で特許を得てインスタントコーヒーの生産を開始した。<以後、工業化へと発展>
今日ではすっかり馴染み深いものとなったインスタントコーヒー。実は、日本人が発明したものであることは、あまり知られていません。
1899年、アメリカに在住していた科学者、加藤サトリ氏は緑茶のインスタント化の研究を行っていました。その研究過程で、真空乾燥法という方法によって、インスタントコーヒーを発明しました。しかし、当時の日本では、現在ほどコーヒーが普及していませんでした。そこで加藤氏は、アメリカのシカゴに加藤商会を設立。1901年にアメリカのニューヨーク州で行われたパンアメリカン博覧会に、インスタントコーヒーを出品しました。
1901年-1970年
日本で初めての本格的な喫茶店は、1888年(明治21年)に、東京下谷黒門町に開業した<可否茶館>でした。その後、浅草や大阪などにも喫茶店ができはじめ、1911年には、銀座に<カフェ・プランタン><カフェーパウリスタ><カフェライオン>の3つの喫茶店が次々とオープンし、有名になりました。単にコーヒーを楽しむだけでなく、ハイカラな文化人たちが集い、文学や芸術、西欧の思想などを論じる社交場として栄えました。この頃から日本でも、コーヒーが広く人々に愛されるようになりました。
1908年ドイツのメリタ・ベンツ夫人がペーパードリップ方式のコーヒー抽出法を考案。
1911年東京銀座に洋画家松山省三の「カフェ・プランタン」、水野龍の「カフェーパウリスタ」、「カフェライオン」<精養軒>が開店。
1938年戦時体制の強化で輸入規制、コーヒー豆の輸入量は前年の半分に。
1945年コーヒー豆不足が5年後の輸入再開まで続き、コーヒー豆は貴重品に。
1950年日本でコーヒー豆の輸入が再開。
1956年インスタントコーヒーが初めて日本へ輸入許可、国産のエスプレッソマシンが初登場。
1960年コーヒー生豆の輸入が日本で全面自由化。国内メーカーがインスタントコーヒーの製造を開始。
1961年インスタントコーヒーの輸入が日本で全面自由化。インスタントコーヒーブームがスタート。
1962年第一次国際コーヒー協定<ICA>設立
コーヒー豆でブルーマウンテンというと、高級という印象が強いのではないでしょうか。ブルーマウンテン、通称ブルマンは、カリブ海に浮かぶジャマイカ島産のコーヒーです。日本国内のコーヒー店でブルーマウンテンを買おうとすると、かなり高い値段になります。
ところが、日本以外の国では、ブルーマウンテンはそれほど人気がありません。そして驚くべきことに、ジャマイカ産のコーヒーの95%は、日本に輸出されているのです。
では、なぜ日本だけ「ブルマンは高級」という「ブルマン神話」ができあがったのでしょう。
実はこれには、売る側のある作戦がありました。ブルーマウンテンが初めて日本に入荷されたのは昭和12年ごろ。量はわずかであるにもかかわらず、高額な取引だったため、高い値段で売ろうと苦肉の策で考え出されたのが<英国王室御用達>というキャッチフレーズです。当時ジャマイカはイギリス領だったため、「多分イギリス王室でも飲んでいるだろう」という勝手な推測で、いわばはったりの宣伝文句が考え出されました。作戦は大成功し、当時ブルーマウンテンは売れに売れたそうです。
1970年から現在
1960年代の日本は、インスタントコーヒー及びコーヒー生豆の輸入の自由化により、コーヒーの大ブームが訪れました。これを第一次コーヒーブーム(ファーストウェーブ)と呼びます。コーヒーブームによって、コーヒーが広い層の人々に飲まれるようになり、日本人にとってコーヒーが一気に身近になった時代です。
その後、1965〜1983年には喫茶店ブームが到来。さまざまな形態の喫茶店が登場しました。この時に生まれた日本の喫茶店が、後にアメリカ起こったサードウェーブのお手本になったと言われています。
1995年頃になると、日本では第二次コーヒーブーム(セカンドウェーブ)が訪れます。シアトル系のコーヒーチェーンが、日本でカフェスタイルのお店を開き、カフェラテなどのアレンジメニューが紹介され、コーヒーの楽しみ方がさらに広がりました。
2013年頃になると、第三次コーヒーブーム(サードウェーブ)が到来。<厳選した素材で、いっぱいずつ丁寧に淹れる>、こだわりのコーヒーを提供する店が増え、現在に至ります。
また、コーヒー店とは違うコーヒーの楽しみ方として、コンビニエンスストアのカウンターコーヒーや、ハンバーガーチェーンのコーヒーも登場。品質にこだわった、<安くて美味しいコーヒー>が開発され、現在でも多くの人に愛されています。
現在、日本のコーヒー生豆輸入量は、EU(European Union)、アメリカに次いで、世界第3位。世界的なコーヒー消費国となっています。
出典:全日本コーヒー協会統計資料
1970年インスタントコーヒーの年間消費量が1万2000トンを突破。
1980年全日本コーヒー協会が任意団体から社団法人化され、農林水産大臣の認可を受ける。
1983年全日本コーヒー協会は、10月1日をコーヒーの日と定める。
2002年コーヒー豆の年間輸入量が40万トンを突破。
2013年コーヒー豆の年間輸入量が50万トンを突破。
2014年日本が世界第3位のコーヒー豆輸入国となる。
2015年全日本コーヒー協会が1983年から提唱する「10月1日コーヒーの日」が、国際コーヒー機構(ICO)の「国際コーヒーデー」としてミラノ万博会場で認定。
2019年国内のコーヒー消費量は高水準を維持。
また、世界のコーヒー消費量も増加傾向にある中、将来のコーヒー生産に対する危機意識が高まり、サスティナブルなコーヒー生産に向けたコーヒー生産地支援の取り組みが進む。
2022年「抽出後のコーヒー粉(コーヒーグラウンズ)」がコーヒーかすに代わる呼称へ。「抽出後のコーヒー粉」は、廃棄物ではなく有効活用できる資源として様々な活用方法が提唱される。
1961年、人類はアポロ11号で初めて月面に到達しました。ニール・アームストロング船長の「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」という言葉が有名です。この後も、アメリカ航空宇宙局(NASA)は6回にわたって、月へ向けて宇宙船を送っていますが、特に「アポロ13号」は、事故が起こったことで、多くの人々の記憶に鮮明に残っています。
このアポロ13号にまつわる、コーヒーに関するエピソードがあることをご存じですか?
1970年4月13日、月へ向かうアポロ13号の産とタンクが、突然破裂しました。思ってもいなかった事態の発生でした。地球への帰還のために、エネルギーを節約するため、電気は切られ、船内は氷点下近くまで温度が下がりました。水を飲むことも、限界まで控えなければなりませんでした。
地球の管制室の、すべてのスタッフとアポロ13号乗組員は、絶望的な状況の中で、希望を捨てずに、あらゆる試練と戦い続けます。もはや、生きて地球へは帰れないかもしれない、と不安にかられる乗組員を支えたのは、地上の管制室から何度も送られる激励メッセージでした。
「こちらヒューストン。がんばれ、乗組員の諸君! 君たちはいま、熱いコーヒーへの道を歩いているのだ!」。<熱いコーヒー>という魔法の言葉は、何度もくじけそうになる乗組員たちを力づけ、支え続けていたのです。
その後、乗組員と管制室の必死の努力により、アポロ13号の乗組員は奇跡的に、無事に地球へ帰還しました。ミッションを終え、家に帰った宇宙飛行士たちは、熱いコーヒーをどんな気持ちで飲んだのでしょうね。